読書歴7年目で本が好きな理由が分かった

エッセイ

最近褒めてもらうことが増えた。「読書して偉いね。」

この4月から社会人になり、自己紹介をする機会が多くなった。本の話をすると、偉いねと言われることが多い。しかし私には少し違和感がある。好きで読んでいるだけだからだ。

皆が一人の時にゲームしたり、動画を見たりするのと同じだと思っている。ゲームして偉いねとは言われたことはない。むしろ怒られていた。同じ好きでも本を読むと褒められる。筋トレも同じ感覚だ。

私は大学生になって急に本を読むようになった。4年間で300冊。

数を重ねると偉くなるわけではない。何か力を発揮してくれるわけではない。だけど何も持っていない私にとって、「4年間で300冊」は大きなものだった。嫌なことが重なって自分が嫌いになりそうな時の心の支えになっていたことは間違いない。

社会人になった今も、冊数は多少減ったにせよ、継続している。相変わらず好きだ。忙しさに疲弊して心を休めたい時には本が読みたくなる。毎日15分くらい読んでいると、不機嫌になることなく振る舞える。

算数が得意で、国語が嫌いだった小学生の私にとって、今の姿は考えられないはずだ。国語の点数の低さを知っていた私の親や小学校の塾の先生は、私に「本を読もう。」とよく促していた。当時の先生に今の本を読む私を見せてあげたい。小学生の私にも今の私を見せてあげたい。

読書するから偉い、わけではないと私はやっぱり思う。なぜなら私より読書をしない友達の方がこれまで凄いなと思う結果を出しているからだ。

私が行きたいなと思った企業から内定を貰ったり、資格を短期間で取得したり、多くのお金を稼いでいたり。読書しているからと言って、万能な人になれるわけではない。

でも「読書=えらい」みたいなイメージがあるのだろう。仲良くなった方にえらいねと声をかけて貰った時に私はいつも上手く返答できず、もどかしさを感じていた。しかし、この間、朝井リョウさんの「スペードの3」を読んでいる途中に、急に閃いた。

「考えの答え合わせができる」から本を読みたくなるのだ。

特に幼い頃は、皆周囲の人の顔色を伺いながら生活してきたように思う。誰かが不機嫌になるのが嫌なのだ。現在は多少マシになったにせよ、なんとなく周囲が気になる癖は抜けない。

周囲を気にするけれども、実際の所皆が何を考えているかなんて、サッパリわからない。勿論なんとなく機嫌が良い悪いを顔色から察することはできる。しかし何があって気分が変化しているのか。言葉にしてくれないとわからない。

集団で意思統一することなんか、至難の業だ。思いもよらない意見が飛び出してくる。良いなと思った意見を提示しても断られる。皆普段はニコニコしていても、意見をぶつけるとギスギスすることだってある。

1つの事柄に対して色んな意見がある。皆、何を考えているかわからない。そんな時に本はとてもありがたい存在だ。

物語を読みながら、自分の感情を把握し、同時に主人公の感情を把握できる。本の種類によっては複数の登場人物の視点に切り替わるものがある。しかも、自分の感情でさえあやふやなのに、本ではしっかりと言語化され、把握できる。(朝井リョウさんの本は、1つの出来事に対して複数人の視点から読み進めることができるから特に好きだ。)

つまり「考えの答え合わせができる」のである。

自分がこれまで歩んできた背景が異なると、同じものを見ても感じるものが全然違う。私から見ると勉強と運動どちらもできると羨ましく思うし、人生順風満帆だなと思う。しかし当の本人は、親や友達の期待に答えるために孤独に苦しんでいるかもしれない。

普段は見えない誰かの考えを読み解くことができる。状況や人によってすぐに考えは変わってしまうから、絶対な正解なんてない。だけど色んなパターンを知っていると役に立つ時がいつかやってくる、かもしれない。

それに他の人の物語や考えを知ることは単純に興味深い。また、現実世界で自分と考えが異なり、思い通りにいかないともどかしさはある。でも本の世界ではなぜだかスッと自分の心に入ってくる。

私がこれから本を読んで偉いねと言われたら、もう少し上手く返事ができる気がした。

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